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歴史で見る東宝

  • 創始者、小林一三という人。
  • 東京宝塚劇場から「東宝」へ。
  • 「今日は帝劇」。
  • 世界のクロサワ
  • 日本初のブロードウェイ・ミュージカル。
  • 劇場から街づくりへ
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創始者、小林一三という人。創始者、小林一三という人。

小林一三

東宝の創業者、小林一三(1873-1957)は、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)や「宝塚歌劇団」の生みの親でもあります。「私鉄経営モデルの祖」としても知られ、今でいうターミナル・デパートを日本で初めて作りました。劇場運営においても、大衆のために料金を安くするほかに、観客目線の細やかなサービスを徹底。劇場内の掲示の文字を、読みやすい明朝体に改めたり、方向指示の矢印も誰にでもすぐわかる手の指の形に変更したりと「よい設備で快適に、面白い芝居や映画を楽しんでもらう」ことに、一貫して取り組みました。そうした観点から映画・演劇事業を育て上げた小林一三の精神は、現在の東宝の礎を築いています。

東京宝塚劇場から「東宝」へ。東京宝塚劇場から「東宝」へ。

現在の東京宝塚劇場

歴史的には、「5・15事件」が発生した1932年、「株式会社東京宝塚劇場」は、演劇や映画の興行を主な目的とする企業として設立しました。1943年には、東宝映画と合併。映画の製作・配給・興行、そして演劇興行の一貫経営を行うことになり、社名も、「東京宝塚」の略称として使われていた「東宝」株式会社に変更しました。設立以来86年間、演劇や映画が、大衆の身近で、そして特別な娯楽であり続けるために、エンタテインメント業界のパイオニアとして、昔も今も、さまざまなチャレンジを続けています。

「今日は帝劇」。「今日は帝劇」。

帝国劇場100周年記念冊子イメージ

帝国劇場は1911年、日本初の西洋風大劇場として誕生し、1937年に東宝の所有となりました。歌舞伎、オペラ、宝塚演劇、バレエなどのさまざまな演目が上演され、その活況ぶりから、大正時代には「今日は帝劇、明日は三越」といった流行語まで生まれました。帝劇誕生100年以上が経つ今も、舞台人の聖地として、国際的な文化の殿堂として愛され続けています。

世界のクロサワ世界のクロサワ

『七人の侍』©1954 TOHO CO.,LTD.

1950年代は、日本映画の黄金時代と言われました。東宝でも、看板監督の一人、黒澤明監督(1910-1998)の『生きる』(1952年公開)、『七人の侍』(1954年公開)などが大ヒット。なかでも、『七人の侍』は、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞しました。その後も、『用心棒』(1961年公開)、『天国と地獄』(1963年公開)『乱』(1985年)など、数々のヒット作を生み出し、1990年には米アカデミー名誉賞を受賞。黒澤監督は、“日本映画の巨匠”として、スティーヴン・スピルバーグやジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラなど、国内外の多くの映像作家からリスペクトされています。

日本初のブロードウェイ・ミュージカル。日本初のブロードウェイ・ミュージカル。

1963年9月『マイ・フェア・レディ』上演中の東京宝塚劇場前

1963年、当時の東宝の演劇担当取締役で、劇作家の菊田一夫が『マイ・フェア・レディ』の上演権を獲得。同年に日本で初めてブロードウェイ・ミュージカルを上演しました。また、帝国劇場では『風と共に去りぬ』を上演するなど、日本のエンタテインメント業界を大きく変える企画を次々に実行してきました。人々を楽しませるために、どんな努力も惜しまないその精神は、今も脈々と受け継がれています。

劇場から街づくりへ劇場から街づくりへ

戦前から昭和30年代にかけ、東宝は「百館主義」の下、映画館用の土地を全国で購入していました。これらの土地を有効活用しようとしたのが、現在まで続く不動産事業のはじまりです。劇場だけでなく、商業施設やマンションなどさまざまな運用で安定した収益を上げる不動産事業は、現在では東宝の営業利益の約3割を占めています。東宝の屋台骨として映画・演劇を支えているのは勿論、街の活性化にも寄与している重要な事業です。